湯村温泉郷と竹中英太郎記念館

『後に続くものを信ず』

「第二東京弁護士会 清友会ホームページ」の記事「清友会の源流をたどる」の第1回で、竹中英太郎記念館とご関係の深い弥生美術館創設者の弁護士 鹿野琢見先生が平成13(2001)年に「清友会の歴史と私」をお書きになり、その最後の部分に「陸士先輩若林東一、加えて陸士榊原主計生徒隊長の慰霊活動」と記されております。

「陸士」とは陸軍士官学校のことですが、若林東一大尉は明治45(1912)年3月27日生れ、山梨県身延中学卒業後、役場吏員、木炭検査員を経て徴兵で歩兵第四十九連隊(甲府連隊)に入営、下士官を経て陸士に52期生として入学、昭和14(1939)年9月に首席で卒業されました。

補遺・「身延町誌」「第三編 町の歴史 第五章 近代 第四節 太平洋戦争」によると若林東一大尉は山梨県南部町のお生れと分かりました。2006年12月08日にこれが判明したのも何かの因縁と感じました。

甲府連隊営門跡
甲府連隊営門跡
現在は山梨県福祉プラザの敷地内

昭和16(1941)年12月9日、第38師団第228連隊中隊長として参戦した九竜半島・香港攻略において敵の隙を突いて陣地を奪取する勲功をたてました。その時、英軍防衛指揮官・ジェームス大尉を捕虜としたのですが、彼を弾丸から護ってやるため壕の中に退避させようとし、これを見てある将官が「捕虜は退避させる必要は無い」と若林中尉をたしなめるように言ったところ、「私には弾丸が当っても良いが捕虜はそうはいきません」と、英軍大尉をかばうように壕の中へ退避させたとの逸話があります。このようにして捕虜たちを守った若林中尉についてジェームス大尉は「この将校は立派な紳士だ。情け深く礼儀正しい。こんな優れた将校は英国軍隊でも珍しい」と語ったとの事です。

歩兵第228連隊中隊長として昭和17(1942)年11月ガダルカナル島に上陸、昭和18(1943)年1月14日戦死され、後に大尉に昇進されました。

ガダルカナル島において若林中隊は「見晴山」を奪取して守備陣地とし一歩も退かず奮戦したとのことですが、その間に日記を一日も欠かさずに書いていたそうです。残存部隊は昭和18(1943)年2月1日から7日にかけて撤退しましたが、おそらくそれまでの間に若林大尉の日記はガダルカナル島へのネズミ輸送を行っていた潜水艦の下士官により持ち帰られたようです。谷萩那華雄(陸軍省報道部長)からこの日記を示され勧められた海軍報道班員だった山形某氏はこの戦場日記を『後に続くものを信ず』という題名で出版したのですが、その日記の裏表紙に「私は後に続くものを信ず」と書いてあったということです。 『後に続くものを信ず』という言葉は当時の日本においては長谷川一夫主演の映画(昭和20(1945)年3月8日)まで制作されるほどの反響を呼んだということです。

以下の資料を参考にさせていただきました。

間もなく12月8日を迎える日、この記事を掲載して竹中英太郎の「幻の絵」について何がしかの情報が得られ、生誕百年の誕生日12月18日にご報告できることを願っています。

幻の絵を捜しています

昭和18_1943年の作品で、「若林中尉の夜襲」(山梨美術協会主催・第7回山梨美術展、洋画の部入選作)とのことです(湯村の杜 竹中英太郎記念館 館長日記 2009.07.11)
竹中英太郎記念館サイトで、竹中英太郎・画「若林中尉の夜襲」について(2012年06月08日)が掲載されています。